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競技活動を通じて馬術競技を、馬の素晴らしさを多くの人に届けたい!
- 人馬一体となり、コースに配置された複数の障害物を飛び越え、ミスの少なさと走行タイムで競うのが、「障害馬術」という競技です。圧倒的に年長者が強いこの競技において、岡田選手は小学生の頃から際立った才能を披露してきました。しかし2022年、馬とともに競技に出場する稀有な競技だからこその苦労、大変さを味わいました。
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小学生の頃から際立っていた才能
- コースに配置された複数の障害物を飛び越え、ミスの少なさと走行タイムで競うのが障害馬術です。23年に大学2年生となった岡田華穂選手の才能は、小学生の頃から際立っていました。小学6年生のときには、全日本障害馬術大会で大人を押しのけて8位入賞。「馬の力に助けてもらっていました」と謙遜しますが、そのスキルには天性の才能が備わっているといっても過言ではありません。
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- ▲岡田選手は馬術競技の選手としては異例の若さで実績を残してきました
そして21年11月には、同じ全日本障害馬術大会part1中障害Bクラスという、年齢制限のない日本でも最高レベルの競技者たちが競う試合に初めてエントリーし、4位に入賞。障害馬術の世界に、改めてその名を轟(とどろ)かせました。同クラスは日本代表レベルの選手たちが出場する、まさにトップレベルの戦いでした。そんな試合での4位入賞という結果に、岡田選手も「大きな自信につながりました」と言います。 -
22年は馬の病気を経験
- ところが22年は、パートナーである馬の病気に悩まされることになってしまったそうです。
「主戦馬のシブルが病気になってしまったんです。競技会に連れていったら熱が出たり、胃潰瘍になってしまったり、ご飯が食べられなくて高熱が出たり熱中症になったり……そのために試合に出られなくなってしまったことがありました。大会に出るために遠征することも多く、冬に寒い場所に連れていくこともありますから、シブルはどちらかというと繊細な馬でしたので、そうした変化に対応しきれなくなってしまったのだと思います」
愛知の乗馬クラブにいた頃からともに戦ってきたパートナーですから、岡田選手も懸命にシブルの不安を取り除いてあげようと努力しました。
「普段から馬のケアには気をつけているつもりでしたし、厩務員の方も気を使ってくださっていたのですが、馬は言葉が話せないので、状況に応じて人がどれだけ冷静に対応してあげられるか、いかに異変を早く見つけてあげられるかといったことが大切なんだと、身をもって知ることができました」
シブルは試合に出られなくなってしまったので、その後新しいオーナーの方に引き取られていったそうです。シブルの離脱は残念でしたが、馬術競技を続けていくうえでは、ある種避けられない経験であったのかもしれません。
ただ、別れもあれば出会いもありました。
「23年の2月に、ドイツから新しいパートナーがやって来ました。ラノーソといいます。今は、ラノーソとグラムアーの2頭で大会に出場しています」
ラノーソとは、また一からコミュニケーションを積み重ねていくことになりますが、そうした経験もまた、岡田選手の競技力の向上につながっていくのでしょう。 -
地元の方々からの変わらぬ応援に感謝
- 馬と初めて出会ったのは、5歳のときでした。ハワイで馬に乗って海沿いや山をゆっくり散策し、すっかりとりこになったのです。自宅のある愛知県岡崎市に戻ると、両親に頼んで乗馬クラブを探してもらいました。ただ、規定で身長120cmに満たない子どもは、ほとんどのところで受け入れてもらえませんでした。そのなかで、特例として認めてくれたのが、かつての所属だった「エルミオーレ豊田」です。「いまでも感謝しています」。岡崎から豊田までは車で約30分。母親に送迎してもらい、毎日のように通いました。そして、馬術競技のなかでも、着実に自分が上達する手応えが感じられた障害馬術を小学3年生のときから始め、楽しみつつも、もっと上をめざす気持ちが強くなっていきました。
岡田選手にとって、地元の愛知県は馬とともに育ってきた場所。頭に浮かぶのは馬との思い出ばかりです。ただ現在は自身のレベルアップのために、コーチのいる千葉の乗馬クラブに所属し、大学に通いながら大会に出場したり、技術を磨いたりする毎日を送っているので、なかなか帰る時間をつくれないことが悩みのタネだそうです。
それでも、地元の皆さんは岡田選手をしっかり応援してくれています。
「愛知県馬術連盟に自分が小学校低学年の頃からお世話になっている方がいて、その方から定期的にメッセージをいただいたり、『エルミオーレ豊田』の方とも、今も普通に連絡を取り合ったりの交流もあります。また、会いにいったときは温かく迎えてくださるので、それはやはり愛知県ならではだなと思います」 -
- ▲小学3年生のときから障害馬術を始めた。地元・愛知県森林公園の試合にて
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2023年度は結果だけでなく走りの中身も重視
- さて、馬の不調もあって「2022年は大きな大会で結果を残すことができなかった」という岡田選手ですが、それでも中障害Bクラス(日本では3番目に位置するクラス)では年間ポイントランキング1位を獲得したそうで、その秀でた実力は健在です。22年に続き、23年も日本馬術連盟から強化指定選手に選出されています。
では23年度は、中障害Bの一つ上、中障害Aに本格的に挑戦できるかというと、そううまくはいかないのが馬術競技の難しいところです。
「グラムアーの年齢の問題で、(障害の難度が上がる)上のクラスだと厳しくなってきていて、馬にとって余力のある高さでやってあげるのがいいということで、中障害Bに出ていました。一方でラノーソはまだ日本に来たばかりですから、人とのつながりがまだ不完全です。なので、しばらくは中障害Bのクラスに出場して、今年の終わりぐらいから中障害Aにチャレンジしていこうと考えています」
ある種もどかしい環境にある23年度、それでも岡田選手は最善を尽くそうとしています。
「中障害Bのクラスではどの試合でも上位にいることはマストとして、さらに結果だけじゃなく中身もいい走行をするというのが、馬のためにもいいことなので、それを目標にしていきたいなと思っています」
岡田選手は、そうした「中身のいい走行」をするために、馬を知るための勉強も進めているそうです。
「練習をするとき、もっと馬に楽に仕事をさせてあげられるように、馬の身体の構造を知っておくこと、そして気持ちの面などもわかってあげられるように勉強していきたいなと思っています。本を読んだり、あと海外の方が発信している動画を見たり、コーチに質問したりなど、いろんなものを有効活用しています」 -
目標は26年愛知県でのアジア大会出場、そして世界最高峰の舞台へ
- 岡田選手の目標は、「日本を代表するトップライダーになり、世界で活躍すること」。社会的に影響力のあるライダーとなり、馬術競技を取り巻く環境から変えていくという大きな夢があります。
しかし、夢の実現に向けて着実に成長を遂げている一方で、岡田選手は冷静に自分自身を見つめています。「現在馬術競技の日本代表として世界大会に出ている方たちは、年齢で40代後半以上。馬術は競技年齢が平均的にとても高く、また世界レベルの方に比べると、私の技術など比べるまでもないレベルで、国内大会で実績は残していても、海外で通用するかどうかはわかりません」
当面の目標は26年、地元の愛知県名古屋市で開かれるアジア大会への出場です。「そのうえで、20代後半に世界最高峰の舞台に出ることができれば……」。それでも馬術競技では十分に若い年齢ですが、それだけの時間があれば決して不可能ではないと思えるほどに、岡田選手の馬術競技への思いは強く、確かなものが感じられます。 -
- ▲岡田選手の当面の目標は26年アジア大会出場。実現の際には、その圧倒的な若さは注目の的となるに違いない
「クラウドファンディングで支援していただいた資金は、遠征費や馬のエサ代などに充てさせていただきました。今後も、それは変わらないと思います」
馬術競技の大会に出場するには、自分だけでなく、“馬運車”で馬も運ばなくてはなりません。「そうした費用も個人持ち」(岡田選手)とのことで、やはり費用負担の大きい競技です。それだけに、集まった支援金は確実に岡田選手の競技力向上につながります。
「私は18年過ごしてきた愛知県岡崎市に、馬術の普及を通じて貢献していきたいと思っています。馬術競技は敷居が高いと思われることが多く、なかなか馬と触れ合ってもらうことができませんが、馬は本当に優しく愛にあふれた動物です。私も助けてもらったことがたくさんあります。私の競技活動を通じてたくさんの人に馬の素晴らしさを伝え、馬術競技を普及させていきたいです」
馬術競技の世界では異例の若さで躍進する岡田選手。その活躍は、必ず「馬術競技の普及」につながるはずです。「地元で馬と触れ合う機会を増やすためのイベントを開きたい」という希望もきっとかなうことでしょう。今後の岡田選手の成長ぶりに、大きな期待が寄せられます。
(取材・制作:4years.)