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強肩からくり出す豪速サーブ武器に世界の舞台へ めざすは4大大会制覇のスーパースター
- 3月に筑波大学を卒業後、ヤフー所属選手として車いすテニスを続ける船水梓緒里選手。車いすテニスを始めてわずか2年、高3でジュニア世界ランキング1位となり、2023年5月15日現在は世界ランキング13位です。4月末から国際試合を転戦するためヨーロッパに長期間の遠征に出ている船水選手は今でも、地元の千葉県我孫子市を大きな力をくれる場所と大切にしています。
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ソフトボールで鍛えた強肩が生む強烈サーブ 海外選手の姿勢に衝撃
- 左腕から力強いサーブを繰り出す車いすテニスプレーヤーの船水梓緒里選手は、中学1年のとき海で事故に遭い車いす生活になりました。当時はソフトボール部に所属し、事故前は遠投で40メートル台後半の記録を出すほどの強肩を買われ捕手をしていました。
「ソフトボールで鍛えた左腕や肩の筋力や可動域の大きさ、体の使い方が、私の大きな武器である強いサーブの原動力です。今でも、遠征先にもソフトボールを持っていってキャッチボールをしています」
部活引退後、次に選んだスポーツが車いすテニスでした。始めて数カ月で試合に出たところ、船水選手のサーブを打ち返せる選手がほぼおらず、サービスエースが決まって勝ち続け、ジュニアの強化指定選手への誘いも来るようになりました。
選手として大きな転機となったのは、麗澤高校1年だった2016年、日本代表に選ばれて出場した世界国別対抗戦だったそうです。 -
- ▲初めての世界大会に出場した船水選手は海外選手の姿勢にカルチャーショックを受けた
「外国のジュニア選手たちは体の大きさや球の強さといったフィジカル面だけでなく、試合に向き合う姿などメンタルも私とはレベルが違い、憧れてしまうほどでした。自分は漠然と練習をしていただけだとカルチャーショックを受け、帰国後すぐ、パーソナルコーチをつけて本気で取り組みたいと両親に訴えました」
日本代表の経験もある藤本佳伸選手に自ら交渉して練習をみてもらうことになり、目標を世界ジュニアランキング1位に設定。この目標を2018年、高校3年で達成します。同年の世界ジュニアマスターズでも準優勝する一方、学業との両立も意識し受験勉強も怠らず、筑波大学に合格しました。 -
必要なのは世界での経験 海外遠征と地元への貢献を両立するには
- 今年4月、世界のトップ選手が集まったジャパンオープンでは、1勝して2回戦まで進んだものの、世界ランキング3位の選手にストレート負け。「国際大会で世界トップレベルの選手に勝つには、グレードの高い大会で様々な国の選手との試合経験を積むことも必要だと感じています」
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- ▲ジャパンオープン2023で健闘した船水選手は手応えと課題の両方を手にした
継続的に海外の試合に出るには多額の遠征費用が必要です。どう工面すればいいのか悩む船水選手に、明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」を教えてくれたのは、自身と同じ筑波大硬式庭球部から、明治安田生命のテニス部に進んだ先輩たちでした。
「自身が支援を受けられるだけでなく、地元にも貢献できることに魅力を感じました。私は我孫子市の方々の協力や応援があってこそ今もプレーヤーとして頑張れているという思いが強く、プログラムの趣旨に賛同して参加を申し込みました」 -
選手生活を支えてくれた我孫子市の人々 今も週末は手賀沼を走る
- 地元の千葉県我孫子市が大好きで、今も週末はほぼ毎週、実家に戻っているという船水さん。市のシンボルである手賀沼の遊歩道を車いすでランニングしており、四季折々の手賀沼の風景の中でも、水面に白くかれんなスイレンが咲く夏がおすすめだといいます。
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- ▲今も週末は地元の千葉県我孫子市に戻り、手賀沼の遊歩道をランニングする
船水選手が地元との結び付きを強く感じているのは、地元の人々から受けた恩義も大きな理由です。高校時代、船水選手は毎朝の練習を終えてから学校に向かっていました。ところが、「朝の練習が終わって、コートから学校までは車で向かわないと間に合いません。コートまでは両親に送ってもらいましたが、両親は共働きのため学校まで送ってもらうことができませんでした」。
そんなピンチを乗り越えることができたのは、我孫子市の「ファミリーサポートセンター」のおかげでした。市民同士が18歳までの子どもの学校への送迎、一時預かりなどで助け合う制度で、船水選手は地元の人たちの助けを得て、練習後に車で高校に通うことができたといいます。「助けてくださった地元のみなさんには本当に感謝しています。選手としてプレーするには、多くの人に支えてもらわなければならないことが身にしみました」 -
目前で逃した大舞台へのチケット 地元の応援支えに試練乗り越える
- 船水選手はこれまで、いくつもの逆境を乗り越えてきました。中学1年の夏、海で事故に遭い、車いすで生活を送ることになりました。半年以上にわたる入院やその後のリハビリに気持ちがふさぎ込んだそうです。
そんなとき、支えてくれたのが当時打ち込んでいたソフトボール部の仲間でした。「車いすでの生活になってからも、部活の同級生に温かく迎えてもらって、キャッチボールなどできる練習は一緒にやりましたし、土日も試合へ一緒に行きました。せっかく始めたのだから最後までやり続けると決めていましたし、みんなと一緒に部活を楽しめたことは今でも財産です」
21年には、東京で開かれた世界最高峰の舞台への出場権をほぼ手中にしながら、最後の最後で逃してしまいました。20年の時点では日本代表に入れる位置にいたにもかかわらず、コロナ禍で大会が1年延期した影響で、実際に代表が決まるタイミングではわずかに及ばず次点となったのです。
ショックで競技を離れた時期もあった船水選手でしたが、筑波大学の仲間の支え、そして地元の人の応援を力に、再び練習に取り組んでいます。「車いすテニスのシングルスは試合中孤独です。劣勢の時、その孤独さは増していきます。そのような時に自分を支えてくれた人たちのことを思い返すと大きな力になります。中学時代から我孫子市の方々がサポートしてくれたからこそ今も選手として活動できています」 -
アスリートとして住みやすい街づくりに貢献したい
- 船水選手の目標は、同じ車いすテニスのスーパースター・国枝慎吾さんのように4大大会を制覇するなど、世界の舞台で活躍することです。「私が有名になることで、地元のみなさんにとって、車いすの人が社会で活躍するのが当たり前になればいいと思っています」
我孫子市は2年前に車いすテニスもできるように市営コートをリニューアルするなど、障害がある人も気軽にスポーツできる環境を整えています。我孫子駅へのエレベーター設置も、背景の一つに船水選手自身の働きかけがあったといいます。
「バリアフリーを進める我孫子市は居心地が良いです。私が世界の舞台で活躍することが、地元やサポートを続けてくれている方への恩返しになります。今年は勝負の年、みなさんの支援で海外遠征を積極的に行い、必ず結果を残します」
(取材・制作:4years.)