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けがをしたことで地元の人たちの温かさを知る
- フェンシングのなかでも、フルーレとエペが「突き」だけの競技なのに対し、「斬り(カット)」も加わることでよりダイナミックになる攻防が特徴のサーブル。このサーブル種目で活躍する、青森県出身、日本体育大学2年生の坪颯登選手。2022年はけがからの復活を遂げ、今季はさらなる高みをめざします。
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3歳で始めたフェンシングの最大のライバルは兄!
- 元フェンシング選手で、地元・青森県黒石市の高校教諭としてフェンシングを指導していた父の影響で3歳の頃から体育館に行き、おもちゃの剣を持って遊ぶことからフェンシングに親しんでいった坪選手。本格的に競技を始めた頃の最大のライバルが、現在、日体大4年生で日本代表のサーブル団体でもともに戦っている2歳上の兄・颯馬(そうま)選手でした。
「“プレイ、アレ(はじめ)!”の合図でお互いダッシュで駆け寄って、剣を振り回す。お兄ちゃんに負けたくない! というだけなので、今映像を見返すと恥ずかしいです(笑)。青森では兄だけでなく、中学生や高校生、大人の選手とも練習や試合をする機会に恵まれたのですが、どんな相手にも負けるのが悔しいから、泣きながら両手で剣を持って突いたこともありました(笑)」 -
負けず嫌いが結果につながった国際大会
- 勝負に対する思いの強さと、熱さ。そして武器である「スピード」を生かすべく、中学2年の時に強化育成事業へ参加した坪選手は、本格的にサーブルへ挑戦することを決意しました。わずか7人という少数精鋭の強化チームに選出され、オーストラリア遠征へ。同年代ながら自分よりも身長やパワーで勝る海外勢と戦ったことが、坪選手の負けず嫌いの魂に火をつけました。
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- ▲19年のアジアカデで、坪選手は様々な思いを背負って戦いました
「(自分の方が)小さくてもスピードや技術では負けていない。でも試合になるとどうしてもあと一歩が届かず海外の選手に負けてしまうので、日本にいても常に年上の相手や、自分より強い相手に勝ちたいと練習から意識するようになりました」
その結果が形になったのが、19年のアジアカデ(U17)選手権大会でした。日本代表として出場した坪選手は、スピードを武器に勝ち進み、個人戦決勝は同じ日本代表で1学年上の小久保真旺(まお)選手と対戦。同世代のライバルで、それまではなかなか勝てなかった相手に臆することなく攻め続け、「気づけば勝っていた」と振り返ります。 -
地元を離れ、相次ぐけが……支えになった弟の一言と地元の声
- 幼少期を過ごした黒石市から、フェンシングが盛んなむつ市に転居し、年上の選手たちと練習を重ねた坪選手は、中学3年生の時に上京しました。日本フェンシング協会の推薦を受けて「JOCエリートアカデミー」へ。将来、国際舞台での活躍が期待される選手が選出されており、当時の日本代表選手とともに練習、生活する場が坪選手の新たな拠点となりました。
大好きな地元・青森を離れる寂しさや「本当にやっていけるのか」という不安を抱いたと言いながらも、練習や食事なども充実しており、トップアスリートとして強さに磨きをかけられる環境に身を置ける喜びにあふれていました。練習時間や強度はそれまでと格段に違いましたが、「やめたい」とか「つらい」と思うことはなく、強くなれる喜びを抱いていた中、試練が訪れます。技やスピードに遜色はなくとも、日本代表の練習に耐えるフィジカルがまだ備わっていなかった坪選手の体が悲鳴を上げ、相次ぐけがに見舞われました。
苦しさや悔しさを抱いていた坪選手の背中を押したのが、当時10歳の弟、颯心(そうしん)選手から何気なくかけられた一言でした。「颯登なら大丈夫でしょ。けがが治ればまた復活して、優勝できるよ」。気遣うばかりでなく、ごく自然に「大丈夫」と言ってくれる弟に勇気づけられました。明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」の存在を知ったのも、まさにそんなときでした。
「地元・青森の指導者の方から教えていただきました。自分が活躍することで地元に貢献できる、盛り上げることができるなら本当にうれしいし、素晴らしい。今の僕があるのは地元・青森での支えやサポートがあったからこそで、このプログラムを通して恩返しできるかもしれないと思いましたし、ご支援をいただくことを自分の強さにしたいと思い、応募しました」
21年11月の試合中に左ひざの半月板を損傷し手術をした坪選手。回復に半年近くかかり、ようやく練習の精度も上がってきたときに、今度は自転車事故で鎖骨を骨折しました。
そんなときに心の支えになったのは、地元の方からの温かい声でした。
「けがをして『坪はもう駄目だ』と言われたこともあって、ひざの大きなけがだったので。その中でも、支援してくれた方々は、『絶対颯登だったら大丈夫』とか、『信じてるよ』だったり、そういう温かいメッセージは、けがしてる自分にとってはすごく大きくて、すごく支えになってましたね」 -
支援金は遠征費と道具の購入費に
- 今回のプロジェクトで集まった支援金は、海外遠征費や道具の購入費に充てる予定です。
フェンシングの道具といえば、例えば白いユニフォーム。分厚い分、耐久性は高いのですが、相手に突かれた瞬間にランプが点灯するように電気が通っていて、汗や湿気でさびることがあるそうです。そして、坪選手にとって切実なのが剣です。
「サーブルの剣は、(フェンシングの)3種目の中で一番折れやすい。他の2種目と違って、サーブルは斬る動作が入ってくるので軽くないといけない。重いと斬るにも斬れないというか。なので、他の種目に比べると細く、結構曲がるんですよ。その分折れやすいので、やっぱり耐久性については剣が一番消耗するんです」 -
地元の応援は競技人生における活力
- 幼少期を黒石市で過ごし、フェンシングでより強くなるためにむつ市へ転居しましたが、地元・青森の“祭り”や“海の幸”は今も坪選手を支える活力で、世界と戦う源です。
「黒石といえば『ねぷた』と『よされ』。子どもの頃から慣れ親しんできたので、僕にとって夏といえば祭り、というぐらい根づいています。むつ市は海に近く、兄と釣りをしたり、海で遊んだりしたことも楽しい思い出ですが、何と言っても海産物が最高においしい。特にホタテやマグロは最高で、大会や合宿を終えて久しぶりに帰省した時においしい地元の海産物を食べるだけで癒やされます」
小学生の頃から地元で活躍し、フルーレを専門とする兄、弟とともに“坪三兄弟”として知られ、今でも帰省すれば多くの人たちから「頑張ってね」「応援しているよ」とかけられる声も、坪選手にとっては頑張る力になっていました。故郷を離れた今だからこそ、坪選手はその温かさを実感しているといいます。
「結果を出した時だけでなく、けがをした時や、うまくいかない時も変わらず『頑張れ』と言ってくれる青森の方々の温かさが僕にとっては本当に大きい。地元の方たちに喜んでもらえるように頑張りたい、と心から思えるし、競技人生における活力。地元・青森は僕の大切な場所で、いつも自分を助けてくれる存在です」 -
- ▲けがを経てパワーアップした坪選手がさらに躍動します Ⓒ日本フェンシング協会
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「幅広い年代を勇気づけられる選手になる」
- 坪選手が抱く目標は国際大会でのメダル獲得です。そのメダルとともに、26年に地元・青森で開催される国スポ(国体)へ凱旋(がいせん)し、多くの人たちに「ありがとう」を伝える。大きな目標をかなえるために、体を鍛え、技を磨く、坪選手が描くビジョンは明確です。
「夢を実現するための力は少しずつつけられていると思うので、もっと強くなって、子どもから高齢者の方々、幅広い年代を勇気づけられる選手になることが目標です。高い目標を抱く以上は、必ず実現するという強い意志、気持ちを持ち続けて頑張ります」
けがで練習ができなかった期間には、リハビリを通してインナーマッスルや可動域を鍛え、体がブレなくなったそうです。23年も「地元アスリート応援プログラム」に参加することで、いち早く地元で応援してくれる方々に結果を伝えたいという坪選手。
「自分の試合を見てもらって、見てくださった方々が、『自分も頑張ろう』とか、『私も』って思ってくれるように、勇気づけられたら。そのようなことしかあまりできないんですけどね」
坪選手が目標に掲げる、日本代表として4年に1度の国際大会出場に向け、青森県黒石市とむつ市のフェンシング熱はますます盛り上がってきそうです。
(取材・制作:4years.)
※ヘッダー画像、プロフィール画像 Ⓒ日本フェンシング協会